テモテへの手紙二1章8-15節
聖徒は正しく生きていたとしても、召命ゆえに苦しみを受けます。召命ゆえに、迫害され、人々から理解されず、場合によっては仲間からも恥ずかしく思われ、人々が去っていくことがあります。そのような状況の中、どうすれば自分自身を恥じずにいられるでしょうか。周りの反応に目をとめていると恥じてしまうかもしれません。パウロが目をとめていたのは、自分の召命、すなわちキリストから「宣教者、使徒、教師」に任命されたということと、任命してくださった方への確信です。「私にゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」テモテは、他の人々のようにパウロを恥じて去っていくのではなく、パウロの良き理解者になる必要がありました。人々から理解されなくても、召命と召してくださった方に目をとめて堂々と歩んでいきましょう。また、恥じて去っていく側ではなく、召命に生きる人々の理解者になり、支えになりましょう。
人々から理解されなくても自分を恥じない【1分で読めるマナメール第373号】
マナメール

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